方伎雑誌 巻二
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孔子曰く「命をつくる,(ひじん)これを草創し,(せしゅく)これを討論し行人子羽
これを修飾し東里,子産これを潤色する」.鄭国の−−−.この四賢の手を経て次第に
善美に−−−.辞命の一事でさえそうである.まして何事においてもその事を極尽すと
いうことは容易なことではない.私が学んでいる医術もそうである.
後藤艮山先生『素問』の百病は一気の留滞より生ず”の語により,医術を発明し補虚益
気などの妄説を弁破し,てい然として古医道を唱え君臣佐使の四剤を駆使し専ら順気を
主張し,また灸,温泉,熊胆などを用いることは皆この人から盛んに行われるようにな
った.
香川太冲先生は後藤門家から出で,儒医一本で”聖賢儒中の医”と称して素問,難経,
傷寒,金匱のうち一つも得ることができず.曰く”一書一人の租述で憲章すべきものな
し.我より古を作らざることを得ず”などと言う.しかし,その著作を見ても仲景の仲
景たる所以を少しも理解していない.『行余医言』も漢唐以来の医人の誤りを論じるの
は膳説冲も多いのだが自己の論説がない.『医事説約』も役にならないものである.
山脇道朔先生も後藤の門家出身でその著作の『医則』『臓志』などには周代の学問を修
め,漢代の医術を用いるなど議論も奇抜,文章も好感が持てるが今日にはさして用をな
さないものだ.
田中●仲の『弁斥医断』にもその事を述べている.
けれども三先生皆それぞれ傑人である.先哲の理論を補い,さらに自己の意見を述べ,
次第に古方に戻りつつある.東洞先生に至ってはその医術言論は”江漢以ってこれを洗
い秋陽以ってこれをさらす”の如くである.しかし,理論家というものは概して他人に
服さぬことが多い.医術に達せぬ人になお多い.ただ,技術向上に専心する者は疑うこ
となし.東洞先生は事実を認め理論憶測はしない人である.従って傷寒論・金匱要略の
中で実用的なところを撰びだされ,飽くまで実地に試み得心の上で『類じゅう方』を書
かれたのであって,後藤,香川,山脇先生の著書とは大いに異なる.
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『医断』,『方極』,『薬徴』,『医事或問』などの書は皆事実に基づいて実際に述べ
るのと違はない.
その中で『類じゅう方』は実に千年来の大作である.これは明和2年乙酉の年に刊行し
た.その時一万部印刷して五千部は京都・大阪の仲間へ売出し,残りを江戸の書店に卸
したところ僅か一ヶ月足らずで京都・大阪・江戸とも全て売切れた.その後毎年印刷を
重ねて数千万部に達している.国内の後世派(劉,張,李,朱学派)の医家も一部購入
したという.書店ではこれ程売れたことは,書籍の新刻,翻刻以来で儒書,医書にもな
いことであった.このことは日常にも本当に価値があるからに他ならない.『方極』が
宝暦5年乙亥の年に初めて販売された.『医断』は延亭4年丁卯の年書き上り,宝暦8
年戊寅の春刊行された.『建殊録』は同年の冬刊行.『医事或問』は明和6年己丑の春
印刷する.
安永癸2年己の年,東洞先生72才にして逝去.
『薬徴』は明和8年辛卯の年書きあがり,先生没後12年して印刷された.『東洞遺稿
』は寛政元年己酉に印刷された.この二書は子息,修夫氏が彫刻したので誤りも多い.
これらの著述を医人として所蔵しない者はない.しかし,先生の撰著は皆実用を主体と
しているので詮索,議論はを寄付けないものだ.そこには実際に施しての変化が記述さ
れている.
私は東洞先生の『薬徴』の原稿を所蔵している.また山辺文伯,村井大年および会津某
の校正の本熟覧した.四書ともそれぞれ得失・遺漏,あって完璧な書とは称し難い.よ
って私は補正して『重校薬徴三巻を』書上げた.近日発刊する.
東洞先生の万病毒一論は,その後素問以来の病因論が煩雑化し論説が一定しない.『病
源候論』などに至っては病因が詳かになるようであるが,万病が万因となり返って医人
の心目を迷わせ病者の主薬を誤りやすい.